知らなかった館山の話②
8月6日は広島の原爆投下、8月9日は長崎の原爆投下と、いよいよ戦後70年の大きな山場を迎えました。
この戦後70年がどんな節目になるかが気になります。
ブログはマイペースでアップしていきます。まだまだネタがあるので。
館山の話にはまだ続きがあります。実はこの館山では、普段では入ることのできない、もしくは見ることのない所も見せていただいていました。
それが「128高地地下壕跡」と「噫 従軍慰安婦石碑」です。ここを見るには、NPO法人安房文化遺産フォーラムの方にガイドを依頼しないと見れません。
左が「128高地地下壕」の室内、右が「噫 従軍慰安婦石碑」です。
「128高地地下壕」は本土決戦の準備命令が下った1944年12月に完成したコンクリート造りの壕です。写真にあるように、戦闘指揮所と刻まれた版を始め、まさに陣地壕の性格をうかがわせる壕になっていました。なお、ここの天井に龍の絵が彫られていますが、理由は謎とされています。
「噫 従軍慰安婦石碑」は、この館山に住んでいたある一人の韓国人女性が従軍慰安婦の証言をしたことを記憶するために建立されたものです。この証言が、慰安婦問題の始まりとされており、この証言は韓国でもテレビ番組で特集されるほど話題になったそうです。
ちなみに、「128高地地下壕」は今の自衛隊航空基地の前身である、洲ノ埼海軍基地に所属していた中島分隊が指揮することになっていたのですが、この洲ノ埼基地の痕跡もまたこの周辺には数多くあります。
(1)掩体壕
掩体壕というのは空襲があった際に、戦闘機を隠し、守るために作られた壕です。土を盛って木材で覆い、コンクリートで固めた後に土や木材を取り外して完成させたそうです。
その証拠に木片がそのまま残っています。
(2)洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡
一見すると大きな穴だけのように見えますが、ここはかつての戦闘機の射撃練習を行なっていた場所です。
今では自然にまぎれてしまっているようになっていますが、この穴に向けて、当時は射撃訓練を行なっていたようです。
(3)普通の道のようで…
実はこの道*1、今では普通に通っていたので意識していなかったのですが、元々は掩体壕や射撃場と洲ノ埼基地を結ぶ滑走路だったそうです。これも驚きですが、改めて館山の街自体に戦争の記憶が刻まれているということを実感しました。
とまだまだ館山の話は続きます。次で完結…か??
*1:この写真はガイドさんの運転している横で撮らせてもらいました。