おそらく誰も触れてくれないので…
このブログ自体が読まれる方が少ないので、ここに書くだけでなく、色んなところで発信しようと思っていますが…
今現在ピースあいちで開催中の
「震災と戦争展2〜新聞に見る戦時の大震災と今」
ですが、これには展示パネルに網羅できなかったこと、きちんと考えてほしいことがあります。それをいくつか示しておきたいと思います。
今回の震災展では、戦時の大震災を取り上げているわけですが、1943年の鳥取大震災・1944年の東南海大震災・1945年の三河大震災を取り上げています。
2012年にピースあいちで震災展をした際にはマスコミ報道をされなかった震災ということで、東南海大震災と三河大震災をピックアップしました。
この時、どちらの大震災も
「戦時の戦意高揚を削ぐことになりかねない」
ということで被害は報道されず、その事実は歪められていました。
しかし、実は鳥取大震災ではこの方針とは少し異なる形で報道されています。
1944年9月10日に発生した鳥取大震災は、翌日に早くも報道されています。その報道内容は…
「家屋の全壊約五千戸 死傷約千六百名 焼失家屋は二百七戸」
と震災被害を一面で報道を数字まで使って打ち出しています。
また、日を追うごとに義捐金の募集や震災見舞いの記事が載るようになります。
そして、9月17日の記事では
「畏し御内拝金賜ふ 鳥取県下震災に御軫念」
という文章が記載されます。
これは要するに
「皇室からの義捐金が出た」ということです。
…というように事実が報道されなかった東南海や三河大震災とは真逆の報道がされていたわけです。
最もこれにより、戦意高揚も促していたわけですが…
鳥取大震災の被害は鳥取県下だったわけですが、当時鳥取を含めた山陰は「裏日本」と呼ばれていました。そんな中で、被害を受けた鳥取は当時の県知事により生産都市、つまりは軍需工場を多く作る方針を立てました。
山陰に日本軍の連隊が駐屯していたこともあり、この計画が進むわけですが、当然1943年以降日本本土はアメリカ軍からの空襲に遭います。
その時、アメリカ軍が空からばら撒いたチラシ、通称「伝単」があるわけですが、これには次の空襲のターゲットについても触れた伝単もあります。
実はこの伝単はピースあいちの常設展で展示されているのですが、その中に「鳥取」という表記があります。
これはもうすでに鳥取がアメリカ軍の空襲のターゲットとして、候補に挙がっていたことになります。
これはアメリカ軍で、
「鳥取も戦意を削ぐための空襲の対象にする都市になっていた」
ことを指します。同じように挙げられている都市はほとんどが当時「中小都市」とされていたところばかりです。しかも鳥取市自体は震災以降に生産都市に変貌していることを考えると…
アメリカ軍の情報収集力などがいかに日本の予測や想定を上回るものだったかをうかがい知れます。
③戦時の新聞報道と現代の新聞報道の比較
もう一度載せてありますが、展示会場は小さく目立たないところです。
しかし、展示自体は比較しやすいようにしてあって、上段に戦時の新聞、下段に現代の新聞という形で展示してあります。
そして、展示ではぜひ「戦時の新聞」(上段)と「現代の新聞」(下段)の比較だけでなく、
「左右の新聞報道」も比較して見てください。
上段については先述した通りですが、下段の、とくに現代の新聞報道もまた比較して見るといかに報道が変わっているかが見れるかと思います。
阪神淡路大震災では「都市被害の問題」を報道しています。
熊本大震災では…どうなのか?
それは直に見て考えて欲しいです。
ここに現代の報道の現状とこの展示をした大きな意図が隠されています。