ぴーすみゅーじあむへの足跡

このブログは自分の旅行した先で行ってきた戦争と平和についての博物館のことや自分の知った戦争と平和についての博物館の情報についてアップするマニアックなブログです。

あいちトリエンナーレ問題

8月3日、あいちトリエンナーレ慰安婦像が展示されてることに対して批判が殺到したことなどが原因で、企画展「表現の不自由展」の中止が決まりました。

 
 
できれば展示を全て見た上でと思ってましたが、叶わず。しかし、あまりにも早くこの問題が風化されかねないので急遽ブログに書きました。

 

 
このあいちトリエンナーレはもともと愛知県下を中心に行なっていた美術展のようなものでした。が、今年になり、韓国問題に大きく関与する「慰安婦像」の作品が展示されたことで、名古屋市長である河村氏や官房長官の菅氏、そして「慰安婦像」についてよく思わない人たちにより、展示の中止の要求や批判、さらにはその政治家による展示会の介入という問題にまで発展しました。果ては「ガソリンをまく」という脅迫まで出ました。
 

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結果、実行委員会は「慰安婦像」などを展示していた「表現の不自由展」を中止することとしました。
 
会見でこの実行委員である津田大介氏は「希望になると思ったが劇薬だった」と語っています。特に今は韓国との国交問題が悪化してるので、なおさらなのだとは思いますが…。
 
この問題では、
 
・公権力が展示企画に介入して圧力をかけたことによる文字通りの「表現の不自由」があらわになった
 
・脅迫で行政が企画展の中止をさせるという、行政のテロまがいの犯罪行為への敗北
 
・扱いがかなりシビアな美術作品の問題への心無い批判の集中
 
慰安婦像に対して徹底的批判をする名古屋市長の河村氏とは対照的に、その批判を憲法違反と発言した愛知県知事の大村氏
 
 
などが問題がなっています。この辺の問題は散々ネットで話題になっていますし、その論理の発展も私よりも詳しい人が多いのでここでは触れません。
 
 

しかし、私が今回の一件で取り上げたいのは、この問題ではあまり注目されていない、「愛知県下における平和問題への関心の落差について」です。

 
実は愛知県は平和に関する学習や思想、教育の関心の振れ幅が非常に大きな落差のある地域だと言え、言い換えればこの問題は愛知県がもともと持っている性質が表に出ているとも言えます。
 
 
愛知・名古屋は15年戦争アメリカ軍の空襲のターゲットになった都市ですが、これは戦闘機を多く製造してる地域だったためです。そのため、空襲の多さでは東京に次いで2番目、そしてざまざまな空襲の方法で攻撃をされた地域でした。
 

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1945年5月14日の名古屋空襲により、炎上する名古屋城
 
 
その後、戦争が終わり、復興に進むことになるわけですが、その担い手になった愛知県知事は桑原幹根という方でした。この方は戦火で荒地となった愛知を見て県知事を受けようと決意したそうです*1
 
 
 
桑原幹根という方は戦時の復興もさることながら、戦争で犠牲になった人への慰霊事業にも積極的で、愛知にある慰霊碑のほとんどにこの方の名前が揮毫者として刻まれているほどです。しかし、その積極的な姿勢は時に誤解を生み、戦後でシビアになった政教分離の問題で批判を浴びることもありました*2。それでもその姿勢は変わらず、あの沖縄復帰に関する声明を議会で採決を取るほどでした。
 

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名古屋市役所。本当は愛知県庁にしたかったけど…。
 
さて、その頃の愛知県の人々は伊勢湾台風などのざまざまな災害や戦後の後遺症などで苦しみながら復興に進んでいました。しかし、それ故に15年戦争の記憶や歴史に対してあまり向き合えていなかったようです。
 
 

その愛知県において、民間での平和問題取り上げがされるようになったのが、「愛知・平和のための戦争展」でした。

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あいち・平和のための戦争展の看板

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僭越ながら自分が展示に参加した2015年のあいち・平和のための戦争展の様子
この企画は現在、愛知県下にある戦争や平和などの問題について活動している団体が集まって、敗戦日である8月15日前後に名古屋市内の会場で展示を開催するというものになっていますが、その先駆けは約30年前、1980年代からになります。
 
そして、この頃から愛知県、名古屋市に平和資料館を建設してもらおうという運動が始まります。それがのちにピースあいちを建設することになる、運営をするNPO法人「平和のための戦争メモリアルセンター設立準備会」となります。
 
 
しかし、ここで官民のすれ違いが発生していきます。平和事業に積極的だった桑原幹根氏が退いたこと、1990年代のバブル経済の崩壊、2000年代の万博開催の決定などにより、財政難を抱えるようになった愛知県や名古屋市はその計画を凍結する決定をします。
 
 
行政での平和資料館の建設が難しいと考えた愛知の平和運動の人たちは、自らその施設を作る方向にシフトしいくことになりますが、その矢先、加藤たづさんという方が現れ、その施設を建設するための資金と敷地の提供を申し出たのです。
その支援を得て、2007年にピースあいちが開館します。
 

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ピースあいち
 
それから愛知県、名古屋市が凍結していた平和資料館の事業を進め、2015年夏に「戦争に関する資料館」を大津橋にある施設に開館します。運動から約30年かかってようやく公的な平和資料館ができた、というわけです…
 

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愛知県・名古屋市 戦争に関する資料館の開館時の様子
 
が、この開館の式典に出席した河村氏はこの資料館の話はそっちのけで、南京虐殺の否定を含めた自身の15年戦争の考え方を話すだけでした。言うなれば、この時点でも名古屋市と市民での、平和教育や平和問題における乖離はまだ続いていることが見受けられます。
 
 
この流れは私が大学に戻ってから愛知で就職してから調べたり、現場に出席して知ったことでした。しかも、この動きはマスコミに取り上げられた内容もあるにもかかわらず、知らない愛知県民の方が多いくらいでした。
 
実際にピースあいちが開館した2007年当時、平和学習の企画運営をしていた時、参加していた愛知県の学生に「愛知で平和学習や活動のできるところとかある?」と聞いても「ないです」と返答されたほどです*3
さらに「あいち・平和のための戦争展」も知らない人が多く、私の指導していた時に実習に来てた人が存在を知らず、慌てて実習内容に組み込むほどでもありました。
 
 
自分の実体験もありますが、愛知県では平和学習やその関心について、高いところは高く、低いところはとことん低いという、関心の落差が激しいわけです。
 
 
なので、実は一見河村市長が批判をし、中止に追い込んだ「表現の不自由展」問題は、愛知県ではきちんと関心持っている人、理解している人はどれだけいるのかというのが正直疑問です。
そして、この問題について愛知県下でしっかりと発信する必要があります。
そのままでは、「権力に負けた展示」と「脅迫に負けた行政」の図でしかないのですが、愛知の歴史や平和学習・教育の面でを照らし合わせると、意外と…ということになります。
 
いずれにしろ、愛知県下では平和問題の落差が激しいという状況を変えたいという想いがあるので、そうなるように広がればと思います。少しでも関心の落差が埋まることを願って…。

*1:戦後直後の中央選任された愛知県知事でしたが、戦時中に東北で会社の経営者をしていたことで一度公職追放を受けています。その後、愛知県知事に再就任し、約4半世紀にわたって愛知県知事として活躍します

*2:愛知県議会にて、のちの愛知縣護国神社になる愛知神社の造営費を県知事が提案した問題のことです

*3:実は私も2007年当時は知りませんでした。お恥ずかしい限り…