戦後75年の夏~松代大本営地下壕へ~
8月28日、安倍首相が健康上の理由により総理大臣の職を辞するという、急転直下のニュースが流れました。夏の終わりに、まさかの展開で驚きましたが…。
どうにも戦後○○年というのが、個人的な節目になりやすい傾向があるようです。戦後70年は会社を辞めて、戦後70年がらみの活動に関わるようになっていました。そして、今年の夏は合縁奇縁で長野で働くことになり、この場所に行く機会を得ることができました。
松代大本営地下壕です。
ある程度15年戦争を知っている人ならばご存知の場所。
本土決戦に備えて首都と大本営の機能を移転するために作られた場所で、この松代一帯の山々に移設される予定で作られていました。
その中でも、一番中身が公開されているのが写真にある、松代象山地下壕*1です。
全長: 5853.6m
概算採掘工量:59635㎥
床面積:23404㎡
データとしての松代大本営はこんな形ですね。
この工事が行われ始めたのが、1944年11月11日。
奇しくも俺が訪れたのが8月11日。これもまた合縁奇縁を感じざるを得ませんでした。
この工事はその突貫性もそうですが、
強制連行された朝鮮の人たちを動員したことも大きな特徴になっています。
そのため、その犠牲になった朝鮮の人たちを慰霊するため*2に建立された慰霊碑が地下壕入り口そばにあります。
そんな過酷且つ突貫の工事で作られた地下壕はというと…
こうして見学できるようになっているほどになっていることを考えると、この地下壕が日本の首都圏を移転するためのものだったことを改めて思い知らされる上に、天然の要塞と呼ばれた松代の山の工事がどれだけ大変なものだったかの片鱗を伺い知ることができました*3。
そして、この地下壕のそばには、地下壕の歴史を継承していこうとしている施設があります。
それがここ、
もうひとつの歴史館・松代
です。
ここでは、当時どんな人が松代大本営の工事に関わってきたのかということを伝える
資料館になっていますが、もう一つ大きな役目を担っています。
それが、この松代地下壕を建設する際に設置された、慰安婦の存在を伝えると言うことです。
今はもうその施設になっていた家もなくなっていますが、そこであった事実や体験は証言として残っていて、それを伝えているそうです*4。
大本営の移設という大事業を進める陰で、多くの強制労働や慰安婦の存在があったということがあった歴史に触れること…
日本人にとっては振り返り、反省するのがキツイ記憶かもしれません。
また、ここでの事実が誇張されているなんて思われるかもしれません。
しかし、それでも戦争という国の勝手な都合で多くの人々が犠牲になった事実は変わりません。それが日本人でも、海外の人たちでも。
それを改めて理屈だけでなく体感する場所だったと思います。