ぴーすみゅーじあむへの足跡

このブログは自分の旅行した先で行ってきた戦争と平和についての博物館のことや自分の知った戦争と平和についての博物館の情報についてアップするマニアックなブログです。

#沖縄の声を運んでください、に微力ながら…~後編・自分が沖縄を発信するようになった理由~

#沖縄の声を運んでください

 

これをハッシュタグをつけて発信している人たちは、さも沖縄に住んでいて、沖縄のことを知り尽くした人たちばかりと思われるでしょうが、自分は沖縄に住んでいないですし、沖縄の現地にもここ数年行けていません。

 

そんな人でもきっかけや想いがあれば、こういう行動を起こしてもいいと思ってもらうために自分にとっての沖縄のエピソード・ゼロを書きたいと思います。

 

 2005年9月。当時大学生だった自分は沖縄へ行ける機会をもらえました*1

 

当時自分は沖縄に行ったこともなく、飛行機すら乗ったことなかったので、

「飛行機に乗れて、行ったことない沖縄に行けるなんてラッキーじゃん」

くらいの感覚でした。

 

なにせ、歴史を勉強しようと大学に進学していた当時の自分にとって、歴史というのは

「古ければ古いほど学び甲斐がある学問」

と考えていて、さらに個人的な事情もあって沖縄に行くこと自体に、楽しみの方にウエイトを置いていました。

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ところが、沖縄に到着した瞬間からその感覚でいることへの違和感を覚えることになりました。

当時、自分は大阪・伊丹空港から那覇空港へと向かったのですが、大阪では見なかったものを那覇空港で目撃しました。

 

自衛隊の戦闘機が空港内に普通に止まっているという光景でした。

写真がないのですが到着した滑走路のそばにあったことに軽く驚きました*2

 

しかし、それも序の口に過ぎないことを思い知らされました。

 

 

そのあと、すぐに宜野湾にある、米軍の普天間基地を見学することになったのですが、その光景に衝撃を受けました。

基地の周りに住宅地や学校が密接している、という光景です。

 

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嘉数高台から臨む普天間基地と住宅地の一部(2005年当時の写メでは全部収まらなかった)

 

最初は

「わざわざ基地の周りに家とか建てんでも」

と思っていましたが、そこで話を聴くともともと沖縄の住民の家とかあったところに、米軍がそれらを排除して建設したとのことでした。

 

さらに自分が沖縄に行く前年、普天間基地の近くにある、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故があったと知りました*3。その事故の際、米軍の調査のために日本人は誰も入れなくなったとの話も聞きました。

 

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米軍ヘリ墜落から1年経った当時の、沖縄国際大学にあった墜落現場の様子

 

これらの事実や光景を初めて目撃した自分は確かに衝撃を受けました。

しかし、自分の住んでいる所には米軍基地がなく、沖縄に初めて来たのもあり、衝撃を受けながらも

「沖縄の人って大変なところで暮らしてたんだな…」

という感想を持っただけで、なぜそんな状況に沖縄がいるのかまで理解していませんでした。

 

その次の日は、平和学習の一つである、「沖縄戦」について学びました。

先の歴史観しか持っていなかった自分は15年戦争も必要最低限の知識しかなく、沖縄で地上戦が行われていたことも知りませんでした。

米軍上陸地や前田高地、チビチリガマ摩文仁の平和祈念資料館・平和の礎と、沖縄を縦断して、当時の戦いやその戦いに巻き込まれた住民の過酷さ、果ては死についても学びました。

 

15年戦争のことでさえ、ろくに知らなかった自分にとっては、沖縄戦は新しく知ることのオンパレードで、その日の最後の目的地であった、平和祈念資料館や平和の礎の頃には、団体行動にも拘らず資料や礎を見るのに夢中になり、気が付けばそのブースで見学しているのは自分だけ、になっていたこともあるほどでした。

 

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平和祈念資料館の南部から沖縄南部の海を臨んだ写真



 

 

「沖縄の人はこんなに過酷な戦争の体験をして、その歴史を受け継いでいるのか…」

 

と、だんだん楽観的に沖縄に来た自分が申し訳なくなってきました。それでも、まだこの時でさえも、自分の中でまだこの沖縄戦と米軍基地がつながっていませんでした。

 

そして、それからまた沖縄の米軍基地について学ぶことになりました。そこから現地で行ったのは嘉手納基地やホワイトビーチなどでした。

そこで聴いたのは米軍が平気で日本の平和憲法非核三原則を破っているかのような、基地の利用をしている*4ということでした。

 

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2005年当時のホワイトビーチ

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嘉手納基地の滑走路の一部(これも2005年当時の写メ機能では全部収められていない)

・周りに関係なく米軍機が飛び交う

核兵器が搭載されている兵器がある

基地外であっても訓練のためならば封鎖などもする

 

そして、ここでなぜ米軍基地が沖縄に集中しているのかということも知りました。

 

・戦争直後に沖縄が本土から切り離された際に、アメリカ軍が沖縄統治を行なったことで、沖縄住民を収容所に入れている間に、自分たちの基地を建設していった

・基地周りにある住宅地なども「銃剣とブルドーザー」による米軍の強行により奪われていった

・復帰時には安保条約や日米地位協定によって、米軍が沖縄で基地を継続して利用するなどの取り決めをした

 

などを知り、ここまで知ってようやく、

沖縄戦から始まって、米軍による統治と米軍基地の運用、それを促進するかのような日米同盟の本質までつながり、

自分の歴史観であった「歴史は古ければ古いほど学び甲斐がある」が大きく揺さぶられました*5

 

この当時こそ、辺野古の座り込み運動の現場に行く時間はなかったですが、沖縄の置かれている「異様さ」を垣間見たことで、沖縄が観光地以外で、取り上げなければならない重要な問題を抱えた土地であることを痛感しました。

 

 

そこから自分は沖縄のことを発信するようになりました。あれから10数年。今もまだ微力ながら沖縄のことを発信しようとブログやツイッターを活用するようになりました。

 

沖縄のことを全く知らないまま行った若造でも沖縄の現地を知り、現実を見れば、衝撃を受け価値観さえ変わるという事例の一つになると思います。

これが少しでも沖縄への見方や興味を変化させるきっかけになることを願って…。

*1:大学生協が主催しているPeace Now!という企画があり、被爆地である広島、長崎と地上戦が行われた沖縄へ行って平和学習をするということを行なっていました。

*2:後から知ったことですが、那覇空港は民間利用だけでなく、自衛隊も利用するという共同利用の空港でした。

*3:当時参加した中に、沖縄国際大学でその事故を目撃した学生がいて、その人が話してくれました。

*4:基地内の利用としてはほかに、基地に住んでいる人の家は一軒家、それも電気水道などは使いたい放題になっている、スーパーや病院などが敷地内にあるとのことでした。

*5:その影響で当初は近世史専攻だった自分が、近現代史それも沖縄戦をテーマに卒論を書こうと思わされるほどでした。