平和学習とエンタメを結びつけたがる理由〜人との理解にもつながる〜
本当はもっと早くに更新したかった話。
一つは、大阪を拠点してる劇団「そとばこまち」の芝居、「幕末」。
もう一つは大阪のアイドルグループ、NMB48のライブ。
ツイッター連動だとより分かりますが、自分は平和学習のことを発信しつつ、エンタメ好きでもありアイドル好きでもあります。
そして、これらを題材にしてブログも書いたこともありますが、単にそのグループや劇団のファンが見てくれて、平和学習のきっかけにしてくれれば、ラッキー程度に思っていました。
しかし。
今回、なぜ自分がこれらを観に行ったことで今まで無理くりにでもこれらを繋げておきたいと思ったのかが、よりはっきりしました。
アイドルのライブにしろ、芝居の舞台にしろ、俺らファン・観客はそのステージ当日での演技やパフォーマンスを観ます。そして、そのステージに至るまでに、演者は稽古やレッスンを繰り返して臨んでいます。
本番に至るまでには、いろんな苦労や苦悩、辛さは言葉にできないほどのものがありますはずです。その中身について、共演者やスタッフでない自分たちは、究極に理解することはできません。ましてや理解しようというのはおこがましいとさえ思われるやもしれません。
この「究極に理解できない」という部分は、自分が行なっている、平和学習にもあります。平和学習の材料になるのは、戦争体験者の証言や記録です。当時を生きる人たちの戦争体験者から出てくる悲しみ、苦しみ、辛さ…
なんていう言葉で語るのが軽すぎるほど、そして言葉にするのが辛いほどの過酷な戦争を体験し、それを語っていただくのは非常に意義深いものですが、当事者でない自分たちがきちんとした、究極の理解の領域に至ることは難しいです。
しかし。
だからといって、その記憶を拒絶してしまえば、そこから得るべき教訓を失うばかりか、語る人の想いを踏みにじることになります。
だからこそ、戦争体験を語ってくれる人たちに「寄り添う」、「共感する」、「歩み寄る」というのが必要になりますし、それが大切になります。
実際、自分は沖縄戦の論文を書くためにと沖縄戦の体験者に話を聞いた時、その過酷な体験を聞きすぎたのと、そんな記憶を自分のような若造が扱っていいのかと申し訳なくなり、その体験者の前で大号泣してしまったことがありました。そんな時に「あなたのような若い人がこうやって共感してくれることがありがたいんですよ」と言って励ましてくれたことで、立ち直れました。
これがエンタメを観る上でも似ている、繋がっていると実感しました。
ステージやライブに上がる人たちはそんなこと理解してもらってもらうよりも、楽しんでもらいたいと思うでしょうが、エンタメを楽しむ以前に、人としてその大変だった想いなどに少しでも寄り添い、そのうえでステージやライブを楽しむようにする。
それが観客側でもできれば、それはエンタメ以外の場面、人と関わる時にも活かせるのではないかと思いました。
ここ数年、ヘイトスピーチが平気で街に飛び交い、人を貶めるような発言をテレビでもする、などと言ったことを少しでも減らすのに、こういったことを考える、そのきっかけになるのが、エンタメのライブやステージになるのではないか…
それが自分の平和学習や戦争体験の継承に繋がってる。それを改めて気づかされたと思いました。
だからといって、その日の夜にこれを見つけるのは偶然にしては出来すぎかもですが…
(大阪大空襲での犠牲者の慰霊仏像たち)