原爆の日を跨ぐ〜愛知にある、「希望の木」たち〜
1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下されました。しかし、今年ほど被爆の想いが軽んじられた年もないと思われます。
コロナ禍の中での東京五輪が強行、一方でコロナ禍による原爆式典の縮小、そして式典での菅首相が文章を読み飛ばし…
しかし、だからといって被爆者の想いや戦争の記憶を風化させていいわけがありません。とはいえ、それを実感するために今のご時世で現地に行くのは難しい。自分は愛知在住なので尚更ですが、実は愛知にも「被爆の記憶」の片鱗を感じ取れる場所があります。
ここは戦後、名古屋市街にある寺院の多くの墓が移設された土地であり、その中には15年戦争を含めた、あらゆる戦争の犠牲者を慰霊する墓・石碑、戦時の名古屋空襲による攻撃の痕跡などが残されている土地でもあります。
その中に、広島や長崎の被爆と平和の想いが込められた「もの」があります。
上の写真は被爆アオギリ2世、下の写真は被爆クスノキ2世です。
これらの木たちの大元はそれぞれ、アオギリは広島、クスノキは長崎にあります。そして、これらは
原爆投下で破壊されながらも、奇跡的に生きながらえた木でした。
原爆が開発され、投下された当初、
「原爆が投下され、破壊された土地には75年草木すら生えないだろう」
とされており、
その攻撃を実際に受けた広島や長崎はご存知の通り、爆風や火炎、そして放射能などによる被害が発生、特に放射能は最近話題になった「黒い雨訴訟」のように現代になってもなお苦しみを与え続けることになりました。
情報が抑制されていた戦時であり、受けたことのない攻撃による広島や長崎の変貌、そして多くの人が人の形をなさないような状態で苦しんで彷徨う…
広島や長崎を絶望に落とすには十二分な被害になりました。そして、先ほど記述したアオギリとクスノキも被爆したのでした。
しかし、被爆した後でもアオギリやクスノキは芽を出し、原爆が与えた絶望を希望に変えるきっかけを与えることになりました。
その生命力の強さと希望のきっかけとなったアオギリとクスノキは、戦後全国や世界にそのタネを配り、2世として育てることで、平和の象徴として想いを受け継いでいく、というプロジェクトにつながることになりました。
その一つが、名古屋の平和公園にも植えられ、現在も大きく成長しているのです。
しかし、このアオギリ2世やクスノキ2世の存在は名古屋や愛知ではあまり知られていません。しかも、この2世は民間に提供され、民間で植えられたのもあり、それを知らせる看板も小さいものしか建てられていません。
これは愛知や名古屋の官民での戦争の記憶や平和の継承に大きな乖離があることや、民間でもまたその関心に大きな落差があるからでもあるわけですが…
広島や長崎から届けられた平和や希望の想いが広がらないのは悔しいものしかありません。
8月6日と9日に挟まれたこの日だからこそ。これは取り上げたいと思い、急遽簡単ですが、ブログにしました。
アオギリやクスノキにはさらに具体的なエピソードがありますが、その詳細はまたじっくりと。
いずれにしろ、被爆者の想いや平和の決意が改めて受け継がれるように願って。