遅れに遅れた、敗戦の日に思ったこと
本当だったら8月15日にアップしたかったけど、今年は仕事が変わったことで時間が取れずの日々…
しかし、ここまで更新しなかったのもある意味正解だったかもしれないかなと。なにせ、今回の総裁選でも、8月15日の敗戦日でも、沖縄の慰霊の日でも、いや戦争が終わったあの日からずっと問題になってることを、取り上げる予定だったのだから…
未だに身元のわからない沖縄での遺骨の問題。
しかも、その遺骨がある土砂を新たな米軍基地に使おうという。その問題が浮き彫りになった時、自分はあることを思い出します。
上の写真は自分が沖縄で、遺骨収集のボランティア活動に参加したときに偶然見つけたものです。今は劣化してバラバラですが、発見したときに言われたのは、砲弾の破片とのことでした。
自分は当時、遺骨こそ自分の手で掘って見つける、ということはできませんでしたが、その現場で写真の砲弾の破片を見つけました。が、実はそのそばで遺骨が見つかり、自分もそれを目撃しました。
当時、たしかに沖縄戦をはじめとした戦争のことを勉強してた身として、その事実を書籍で学んでいましたが、その事実を目の前で、しかも沖縄戦で犠牲になった人の遺骨を見た時…
ものすごい「重み」を実感しました。
死んだ人の重み、
生き残って遺骨を掘り起こす重み、
これを今もなお美談にして片付けるという罪の重み…
本来ならば自分のような人間が触れるのもおこがましくさえ思えるほどでした。
そんな「重み」のあるものがまだ眠っているであろう、そして沖縄戦の中でも本来ならば避けられたやもしれない命が散らされた、遺骨のある土砂を、辺野古新基地の埋め立てに使おうというのは、愚かを通り越して、命の冒涜だと言いざるを得ないです。
辺野古新基地を進め、先の戦争で戦犯がなった靖国神社に行って、「英霊への参拝」とか言ってる政府。これは死んだ人の「命の声」をも捨てることになるのではないかと思います。
その「命の声」を聞かない結果がどうなるかは、先の戦争が示してると言うのに…
岸田氏に決まった自民党総裁選、その時の候補者たちに沖縄の遺骨土砂の利用についての問い合わせをしても、それには無回答だったそうです。
せめて、生きてても死んでても命を冒涜しない人が次の政権を担ってほしい…
そう願わずにはいられないです。